050_全き遊び_600



マチルダとミミちゃんのお話。



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【解説】

「それ、何の役に立つの?」

これが『上司が、就業中の部下に向けて投げかけた質問』であれば、それは的を得た質問だ。

んで、問われた部下が「え、役には立ちませんよ?ただの暇つぶしですから」
とか、平然と言ってのけたら、「こいつマジかッ」って思っちゃう。

「この、今日取引先に納品予定の製品、投げてみたらフリスピーみたいに飛ぶんですよ、…部長もやってみます?」

とか、胸弾ませてたら、「もう、どうしようか、いろいろ…」って思っちゃう。


でも、

「それ、何の役に立つの?」という質問が、

『大量のトミカを一直線に並べた横に寝そべって、
”連なったトミカの全長と自分の身長のどちらが長いか“を懸命に調べようとしている男児』に対して、
父親が向けた質問であるなら、それは質問する父親の方が馬鹿なのである。


遊びに、合理性や生産性、成果を求めるのは、ナンセンスだ。

遊びは、くその役にも立たなくていい。

遊びに、永続性や再現可能性を求めるのもナンセンスだ。

遊びは、その時一回限りの思いつきで、無計画に初め、記録や痕跡を起こさずに終わって良い。

遊びに、論理性や一貫性、共感性を求める奴は、人生損する。

遊びは、情緒が全て。「今わたしが楽しい」という主観が全て。


子供は、そのへんのことをよくわきまえている。
しかし、大人になると、それを忘れてしまう。

遊びが「何の役にも立たない」ということが、時間の無駄に思えて、内心許せなくなってくる。
「その時間があるなら勉強をすれば良いのに」と考える。

だから、ただ楽しいというだけで行っている“純粋な遊び” “全き遊び”を
『無駄なこと』と言って切り捨て、やめさせようとしたり、
『有用性』という混ぜ物をして、

「遊びながら英語単語を覚えよう」とか「遊び感覚で算数が身につく」
「ゲームをしているだけでピアノが上達する」というキラーワードに踊らされるままに
『遊びと仕事(勉強)のハーフ』を提供しようとする。

こういう、アウフヘーベン的思考は「まぁ、目玉焼きも作れるコーヒーメーカーなんて便利!」と買ってみたはいいものの、どちらも中途半端でありながら、どちらか片方を切り離して捨てることも出来ず、無用の長物化させてしまうようなケースに陥りがちだ。

遊びに有用性を求めることは愚かだと述べたが、
遊びに有用性がないということは決してない。

遊びは、無駄なようで、無駄ではない。
遊びは、役に立たないようで、実はすごく役に立っている。
それが目に見えてないので、「活用されている感」がないだけなのだ。

遊びに「有用性」「実用性」を求め、意味のない遊びを子供から取り上げるような人たちは、
時間活用信仰に陥り、ミヒャエル・エンデの『モモ』に登場する“灰色の男たち化”してしまう。

『賢者の生活リズム』というクリスチャン向けの本の中で、著者のケン・シゲマツ氏は
遊びと仕事の区別について述べ、“それを行うこと自体に目的があることが遊び” (p183 第11章 子供のように遊ぶ)と、定義している。


子供から『純粋な遊び』を取り上げてはいけない。
『有用性』という混ぜ物をしてはいけない。
むしろ、遊び方を忘れてしまった私たちは子供から、
「どのように遊ぶのか」を教えてもらわなければいけない。

遊びは、一見何も生まないように見えて、それは確かに後の人生に影響を与えて、
その岐路を大きく変えることになる。

冒頭に登場した、トミカを連ねて遊んでいた子供も、
やがてホテルマンとなり『縦列駐車のエキスパート』と呼ばれる日がくるかもしれないのだ。



モモ (岩波少年文庫(127))
ミヒャエル・エンデ
岩波書店
2005-06-16





忙しい人を支える賢者の生活リズム
ケン・シゲマツ
いのちのことば社
2015-08-10





050_おまけ

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