あなた自身の中にもきっといる、こんな(良くも悪くも)素直な子どもたち。

ママミルクは、個性溢れる子どもたちが自由に生活する小さな社会を描いた4コマ漫画です。(たまに2・3コマにもなります)

皮肉と風刺の隠し味が、後からじわりじわりと効いてくる・・かも?

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デジタル

【050】全き遊び

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マチルダとミミちゃんのお話。



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【解説】

「それ、何の役に立つの?」

これが『上司が、就業中の部下に向けて投げかけた質問』であれば、それは的を得た質問だ。

んで、問われた部下が「え、役には立ちませんよ?ただの暇つぶしですから」
とか、平然と言ってのけたら、「こいつマジかッ」って思っちゃう。

「この、今日取引先に納品予定の製品、投げてみたらフリスピーみたいに飛ぶんですよ、…部長もやってみます?」

とか、胸弾ませてたら、「もう、どうしようか、いろいろ…」って思っちゃう。


でも、

「それ、何の役に立つの?」という質問が、

『大量のトミカを一直線に並べた横に寝そべって、
”連なったトミカの全長と自分の身長のどちらが長いか“を懸命に調べようとしている男児』に対して、
父親が向けた質問であるなら、それは質問する父親の方が馬鹿なのである。


遊びに、合理性や生産性、成果を求めるのは、ナンセンスだ。

遊びは、くその役にも立たなくていい。

遊びに、永続性や再現可能性を求めるのもナンセンスだ。

遊びは、その時一回限りの思いつきで、無計画に初め、記録や痕跡を起こさずに終わって良い。

遊びに、論理性や一貫性、共感性を求める奴は、人生損する。

遊びは、情緒が全て。「今わたしが楽しい」という主観が全て。


子供は、そのへんのことをよくわきまえている。
しかし、大人になると、それを忘れてしまう。

遊びが「何の役にも立たない」ということが、時間の無駄に思えて、内心許せなくなってくる。
「その時間があるなら勉強をすれば良いのに」と考える。

だから、ただ楽しいというだけで行っている“純粋な遊び” “全き遊び”を
『無駄なこと』と言って切り捨て、やめさせようとしたり、
『有用性』という混ぜ物をして、

「遊びながら英語単語を覚えよう」とか「遊び感覚で算数が身につく」
「ゲームをしているだけでピアノが上達する」というキラーワードに踊らされるままに
『遊びと仕事(勉強)のハーフ』を提供しようとする。

こういう、アウフヘーベン的思考は「まぁ、目玉焼きも作れるコーヒーメーカーなんて便利!」と買ってみたはいいものの、どちらも中途半端でありながら、どちらか片方を切り離して捨てることも出来ず、無用の長物化させてしまうようなケースに陥りがちだ。

遊びに有用性を求めることは愚かだと述べたが、
遊びに有用性がないということは決してない。

遊びは、無駄なようで、無駄ではない。
遊びは、役に立たないようで、実はすごく役に立っている。
それが目に見えてないので、「活用されている感」がないだけなのだ。

遊びに「有用性」「実用性」を求め、意味のない遊びを子供から取り上げるような人たちは、
時間活用信仰に陥り、ミヒャエル・エンデの『モモ』に登場する“灰色の男たち化”してしまう。

『賢者の生活リズム』というクリスチャン向けの本の中で、著者のケン・シゲマツ氏は
遊びと仕事の区別について述べ、“それを行うこと自体に目的があることが遊び” (p183 第11章 子供のように遊ぶ)と、定義している。


子供から『純粋な遊び』を取り上げてはいけない。
『有用性』という混ぜ物をしてはいけない。
むしろ、遊び方を忘れてしまった私たちは子供から、
「どのように遊ぶのか」を教えてもらわなければいけない。

遊びは、一見何も生まないように見えて、それは確かに後の人生に影響を与えて、
その岐路を大きく変えることになる。

冒頭に登場した、トミカを連ねて遊んでいた子供も、
やがてホテルマンとなり『縦列駐車のエキスパート』と呼ばれる日がくるかもしれないのだ。



モモ (岩波少年文庫(127))
ミヒャエル・エンデ
岩波書店
2005-06-16





忙しい人を支える賢者の生活リズム
ケン・シゲマツ
いのちのことば社
2015-08-10





050_おまけ

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【049】フリーマーケット

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リベカちゃんと、リサちゃんのお話。



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【解説】

夫婦や家族間にお金のやりとりはあまりない。

皿洗いをしたらいくらとか、相談にのってもらったからカウンセリング料いくらとか、
家事に対して月給が発生することもない。
「ちょっと帽子借りるね、レンタル代いくらだっけ?」
「今キャンペーン中だから一週間100円でいいよ」
みたいなやりとりみたことない。

明確に当番やルールを決めることもあるが、ほとんどが暗黙の了解、空気感、
その都度都度でギブアンドテイクで成り立っている。

夫が「交際期間から今までにお互いに使った金額を一回、精算しよう」みたいなこと言い出したら、
「はぁ?」っていう。

そんなことを事細かにきめていたら、今まで円滑にやれていたことが
急にややこしくなる。経理や税理士を雇わないといけなくなる。

でも、お金というものが見えないだけで、
これは経済活動ではないかというと、経済活動だと言えなくもない気がしなくもなくはない感じだ。

お金のやりとりはないとしても、
需要に対する供給と、供給に対する需要が生まれており、
トレードがあり、労働があり、そこには擬似社会的な活動がある。

それ“はほぼほぼ経済活動”であって、
しかし貨幣システムがからんでいないがために“経済活動”とは呼べない。

いや、ドラゴンボールは、全然ドラゴンボールが登場しなくなってからもドラゴンボールなんだから、
経済活動も、貨幣をまるきり使わなくても経済活動なんじゃないかと思うわけで。
お金を使用しないコミュニティーの内部でも、貨幣や商品を使わないトレード的役割は機能していて、相互に必要を満たすシステムは出来上がっている。

貨幣のシステムがあった方がいいか、ない方がいいか、
もちろんあった方がいい。

しかし、

貨幣システムを導入する方が楽か、しない方が楽か、
もちろんしない方が“仕事量的には”楽なのだ。

しかし、今の貨幣システムがあるが故に、人間はその機能の奴隷となってしまっている部分がある。
それを風刺してみたかった。

可愛さだけがウリのこの漫画では描くことができなかったが、
私が描きたかった話がある。

それは、

『海難事故で他国に漂着し、パンを買いにきた男が
店主に自国の通貨を出すと、
「この金では買えない、両替をしてからまた来てくれ」と言われる。
男は、両替屋を探している最中に餓死してしまう』

という話だ。


流石にママミルクのキャラを餓死させるわけにいかないので、
フリーマーケットに置き換えたが、
言わんとするところは一緒だ。


お金には、お金があるが故に
お金を使って必要を満たさなければいけないと思い込んでしまう、という側面がある。


耳掻きがあるから、という理由で
外界へほじくり出されたところで
捨てられる以外何の選択の余地も与えられない耳垢たちは無意味に摘出され、

鼻毛切りカッターがあるから、という理由で
日々、体外からのごみの侵入を守っている
鼻毛たちは根こそぎ刈り取られてしまう。


なんかの動画でホリエモンさんが『お金を介さなきゃいけないのは効率が悪い』的なことを話されていて、(うろ覚えでごめんなさい、違うかも)まさにそういうことが描きたかった。

お金のやりとりは、なくて済ませることができるならそれが1番手っ取り早い。


何にでも値札がついちまう世知辛ぇ世の中で、
貨幣制度とは、お互いの必要を円滑に満たし合うための“あり方”の一つなんだ、ということを
叫びたかったわけです。





049_おまけ

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