あなた自身の中にもきっといる、こんな(良くも悪くも)素直な子どもたち。

ママミルクは、個性溢れる子どもたちが自由に生活する小さな社会を描いた4コマ漫画です。(たまに2・3コマにもなります)

皮肉と風刺の隠し味が、後からじわりじわりと効いてくる・・かも?

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July 2020

【062】バッテリー残量

062_バッテリー残量_300


ロボを作ったハカセのジャックと、ハカセに作られたロボのお話。



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【解説】
自分に残された命(バッテリー)を、だれのために使うか。
というより、
どの目的のために使うか、
その議題を緊急でも重要でもないタスクとして先送りにしてきた人は、

今、


今、


今、

考える時間をもって欲しい。

別に企業や転職を勧めるわけではない。
他人のためにと、時間を使うことを軽んじているわけではない。

ただ、あなたの時間の使いかたが、
人に向けられたものであれ、自分に向けられたものであれ、
(あるいは、神に向けられたものであれ)
『自発的であるか』を考えて欲しいということだ。

あなたは、自分の時間の使い方に納得しているか?

「働かされている」「しなくてはならない」「仕方なくしている」
という不本意な時間の使い方をしているのであれば、
それをやめるか、認識(見え方、切り口)を変えるかのどちらかの処方を選ばなければ、
不本意な人生のまま、生涯を閉じてしまうことになる。
命はバッテリーの駆動時間だ。

死の床で「ああ、俺の人生なんだったのか」と
不本意な思い出満たされるような終わりかたでよいのだろうか。


私は物腰柔らかで、愛想もいい方だ。
だから、人に何かを頼まれることが多かった。

ところが未だかつて、私のもとにお金を借りにきた人はいない。
まぁ、見るからにお金はなさそうだからと思うが、
実際にお金を借りにきたところで、
本当にないのだから、貸すことはできない。
預金残高を見ればないことは明らかだから。


でも、なぜか時間は平気で貸してしまう。
「いいよ」「やっといてあげるよ」
時間は預金残高のように残高がわからない。


いくらでも貸せそうな気がする。
いくらでも貸せるのに、
それを人に貸さないのは
ケチだと思われるような気がする。

だから、断りきれずについ引き受けてしまう。

でも、どうか。

本当に、時間はいくらでも貸せるのか?

借りに来るたびに、無造作に、オートメーションに、貸してしまってもいいものか。


そういうことを、ロボくんは考えたんじゃないかな。

やり残していることがある。

後悔のない人生を歩みたい。

人の言いなりになって、自分の人生を棒に降りたくはない。

ロボでさえ。

062_おまけ

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【061】快適空間

061_快適空間_300

ミミちゃんとベアーのお話。



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【解説】

ヤフー知恵袋とか2ちゃんねるとかで、
匿名かつ不特定多数を相手に人生相談をする人たちがいる。

情報をばら撒くことで、
運よく親切な誰かが自分を案じて、必要な情報を与えてくれるだろうと
藁をもすがる思いでネットに書き込む、
そうしたい気持ちがわからないわけでもない。 

相談内容がいかに深刻であったとしても、
匿名で書き込むことは、“手軽”にできてしまうからだ。

ただ、その手軽さこそが、危険なのだ。


 手軽に、相談し、手軽に返答する。
どちらも、部屋から出ることなく、
なんなら寝転んでポテチを頬張りながら、
「マザーテレサはね…」なんて高尚な文句を垂れることもできる。
相手については詳しく知ることもなく、
 ただ、なんとなくの推測だけで、
「ああすればいい」「こうすればいい」とアドバイス。
一生懸命想像を働かせていても、想像の域から脱せない。
ふわふわっとした空虚な伝言ゲーム。
アフターケアどころか、結果を知ることさえままならい。

営利目的のカウンセリングなら、へたなアドバイスをして相談者を迷わせたら
評判が落ちて運営に響くというリスクを抱えるが
匿名の掲示板は、しくじっても何も失わない。


私は、それが気持ち悪くって仕方ない。

そんな深刻な相談、ネットでしちゃだめだよ!と思える。
(同時に、それ以外の選択肢が見つからないという現実も歯痒い)


 いや、うまくいくケースだってあるにはある。

 
ネットには「相談窓口」を教えてくれる親切な人もいるにはいるし、
あんたどこの大学教授?ってくらい博学な人もいる。
こういう人が運よく見つかったら、あたりだ。

でもそれは街中で「お金をくれませんか?」と
手当たり次第に声かけていけば、 いつかは大金を恵んでくれるエンジェルに出会える理論だ。
実際にだれもそれをしないのは、相応の危険に巻き込まれてしまうリスクを知っているからだろう。 

そして、ネットでエンジェルを探すのは、街中で探すよりむずい。
街角を歩くエンジェルも、ネットではデビルに化けることがあるのだ。

「日本人は親切な人が多い」というふわっとした信条でネットに書き込むと痛い目を見る。
ネットの住人は日本人ではなく、ネット民である。
かれらは、日常のそれより、はるかに気が大きくなっている。

そう、今この記事を書いてある私がそうであるように。

顔が見えないと、人は饒舌になる。
結果責任を取らなくていいと知ったとたん、
みんな自分はマザーテレサやガンジーだと思い込む。
擦りガラス一枚隔てるだけで、人の舌は釣り上げたばかりの本マグロみたいに跳ね回る。


聖書に
“しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。 ”( ヤコブの手紙 3:8 新改訳聖書2017)
と、書いてあるとおりだ。今は、指先(タイピング)を制することができないケースの方が多いかもしれないが。

そんな暴れ狂う舌を、ある程度制御できるのは、
個々が持つ顔、パーソナリティであり、社会的ステータスであり、他者との人格的交わりなのだ。
それは、失っては困る、人質のようなものなのだ。

 お互いに、人質を取り合うことで私たちは親切になれるし、
心地よい社会生活を送ることができる。
それは、悪いことではないのだ。


実際のところ、どれだけ親身になろうとしても、他人事であり、
他人である私たちには触れられない領域というものがある。 

それでも、他人の痛みを痛み、悲しみを悲しむという歩み寄りは
人間として持続せねばならないと思う。

それができるのはやはり、フェイスtoフェイス、ネームtoネーム、人格対人格の交わりだろう。




061_おまけ

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