あなた自身の中にもきっといる、こんな(良くも悪くも)素直な子どもたち。

ママミルクは、個性溢れる子どもたちが自由に生活する小さな社会を描いた4コマ漫画です。(たまに2・3コマにもなります)

皮肉と風刺の隠し味が、後からじわりじわりと効いてくる・・かも?

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June 2020

【060】計画中

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ベアーと、ヨブのお話。



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【解説】

計画と実行(着手)の間には、今日も冷たい風が吹く。

最初に、私なりに『計画』と『着手』を定義しておくと、
計画というのは手軽にできるデスクワークの部類だ。
私の例で言うと、スケジュールを決めたり、マニュアルを作ったり、エゴサーチしたり、絵の練習動画をみたり、資料を集めたり、これが計画の領域である。

実行は、すると決めたことに着手すること。客観的に認められる成果物を作ること。
漫画を書く、ペン入れをする、ブログを書くというのが着手の領域だ。

私の例で言うと、
スケジュールを決めたり、マニュアルを作ったり、エゴサーチしたり、絵の練習動画をみたり、
資料を集めたりするのが計画の領域であり、

漫画を書く、ペン入れをする、ブログを書くというのが着手の領域だ。

ジャンルは仕事や勉強、掃除、家計簿、旅行などさまざま。


計画というのは曲者だ。

もちろん、物事をしっかりと行うために計画を立てることは重要だ。
しかし、計画をいくら綿密に立てたところで、
着手というステップに移らなければ物事は決して進まない。

畑のきゅうりが、食べごろであるピークを過ぎると、
大きくなりすぎ、くそまずくなっていく。

そして、計画というのも、あっという間に飽和点にたどり着き、
そこを過ぎると、立てれば立てるほど内容が薄くなり、
生産性ゼロゾーンに突入する。

しかも計画を立てるという行動は、実質がほとんどないくせに、やったという感覚は味わえる。
前進はしていないのに、前進感、進捗感だけはやたらと味わえる。

ということは、進んでないのに、もうトランス状態かってぐらいに熱中しているのに不毛な反復。
イメージとしてはこんな感じだ。

ダウンロード

(引用:魔法陣グルグル 衛藤ヒロユキ)



気付けば、この永遠の計画ループの罠にとらえられて、
いつまでも時間と体力を浪費し続けてしまう。
それが計画の恐ろしさなのである。







060_おまけ

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【059】説明会

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ヘルムくんと、悪魔のマーロンのお話。



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【解説】

ドラゴン桜という漫画で、主人公の講師 桜木は
体育館に集まったヤンキー学生たちに次のように述べた。

“社会のルールってやつはすべて頭のいいやつが作っている
それはつまりどういうことか…
そのルールは頭のいいやつに都合のいいように作られてるんだ
逆に 都合の悪いところはわからないように隠してある
それでも頭を働かせるやつはそこを見抜いてルールを上手に利用する”
(引用:ドラゴン桜 一巻 第4限目 三田紀房)

ドラゴン桜(1) (モーニングコミックス)



うわぁ、言ってくれるぜ!桜木先生!と思った。
そうなんだよ、そう。それがこの社会に出来上がっている構造なんだ。

私はかつて、頭のわるいやつらの一員であった。
つまり、世の中は、権力者の都合で作られており、
与えられた情報は、権力者によってピンハネされた、
五番煎じくらいの情報であるという自覚がなかった。

教科書や道徳教本は、私たちの幸せを願う国の偉い人たちが、
豊かな教養と自立できる精神をもつことが作ってくれたと盲信していた。
世界は、私たちにこの上なく親切な存在であると疑わなかった。

陰謀論はきらいだが、少し想像力を働かせればそれが幻想であることがわかるはずだ。
人の上に立つ人も、飯食って、排便して、二度寝して、後悔して
しくじっても「ごめんなさい」と謝れない私たちと同じ人間だ。

スキャンダラスで失言まみれでわいろもらったり、エッチなことしてすぐ更迭される国のお偉い方々が
ビューティフルスピリッツに基づいて国のために働いていると思えるほうがおかしい。
(私だって、同じ権力が与えられたら誘惑に勝てる自信はない)

実際におかみの方々の中には、正義の精神でやってる立派な方々も(少数ながら)おられるだろうから、私利私欲と利他主義とのせめぎ合いの末に、
『限りなく私利私欲よりの折衷案』がふもとに降りてくると考えるのが
妥当だろうというのが私の意見。

どうのこうの喚いたって仕方ない。
人類はだらしがない。
その本質は、自己中心の塊だ。
そんな人間が作り出す社会が不公平なのは当たり前なのだ。
それを踏まえたうえで、人や境遇を憎むのではなく
それを賢く利用するかを考えるんだ。
文脈から悟れ、ことばの裏を読め、意図を探れ。

『与えられた情報を鵜呑みにしない』
『なぜかと問いかける、自分の頭で考える』というクセをつけないと
搾取されることにも気づかず搾取され、
利用されていることも気づかずに利用され続けることになるであろう。




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【058】後付け

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画家のイサクのお話。



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【解説】

この漫画は、mamamilkを書く自分への戒めを込めて描いた作品。
つまり、シュールな作風であるからこそ、シュールに逃げるなということだ。

お笑いなんかでも、シュールなネタとか社会派ネタをする人は、
ネタがちっともうけていなくても、インテリぶっているだけで、
「俺たちが滑ったのではなく、周りが俺たちの笑い(art)を理解できないんだ」
みたいな雰囲気を醸しだせるから、そういうのずるいし、逃げだし、腹たつ。

具体名は一切あげないけど、そういう人たちわんさかおる。

いや、お笑いの土俵で戦うなら、アートであってもウケろよ。
「俺の営業は足を使わないタイプなんだよね」とかほざけるのは営業ノルマ達成してからでしょ?と。
(そういう意味で、笑えるし芸術性も高いラーメンズはやっぱりすごい)


私の漫画はとっつきづらく、理解されないところが多い。
大多数にとっては「ちんぷんかんぷんで、さっぱり意味がわからない作品」だ。

だから、「どうせわからないから」と、作品をやっつけで仕上げたいという誘惑に駆られる時がある。
つまり、自分でもよくわかんないが、(まあ読み手が都合よく解釈してくれるだろう…)と、
自分でもよくわかんない「まいっか状態」で、提供してしまいそうな時がある。
自分でも面白くないとおもいながら、「こういうのが意外と受けるかもしれないな」と妥協に甘んじてしまうのだ。


これは大きな間違いだ。


例え、相手には理解されないとわかっていても、
自分では作品の意味を理解していないといけない。

そうでなくては、せっかく自分の作品を理解してくれる人が現れたときに、
「なんだ、この作品は意味がない」と見抜かれてしまう。

八割そばを出すと看板に掲げている店は、6割だか5割だかわかんない状態でそばを提供すべきではない。
常連さんにはわかるのだ。


今、『屋根裏の保護者。』という、人間の罪をテーマにした漫画ネームを描いている。
https://seiga.nicovideo.jp/comic/47940

思いつきで描いてみたはいいが、
正直、話の筋を合わせたり、主人公の心理描写、心境の変化を矛盾や違和感なく持っていくのは
めちゃくちゃ大変だ。もう、投げてしまいたくなる。

そうすると、どうせ自己満足だからと、強引に主人公泣かせて感動シーンに持って行ったり、
抽象的なポエムに逃げることによって誤魔化したくなる。
話のキセル行為をしてしまいたくなる。

こうして出来上がるのはハリボテの作品だ。
話の裏側まで作り込めていない。見える景色だけを作って、目に見えない世界観を構築していない。

「え、なんで移動手段がなかったはずの主人公が家に戻ってるの??」
「ここでヒロイン死ぬの急すぎない?うわ、おきまりのBGM流れてきたよ…」
「え、なんで主人公の涙が落ちで死んでいたヒロインが生き返るの?どういうメカニズム?」
こうなると深読みできる読者につまづきを与えてしまう。

私自身、完成度の低い作品を見たときに
「あ、ここの展開ちょっと強引に持って行ったな」とか、
一瞬でしらけてしまうことがよくある。

(あと余談だが、ドラゴンボール超に関して、映画でピッコロがカラオケしてたり、
ベジータが「俺のブルマに何をする!?」といってブチ切れるシーンがあったり、
フュージョンは民衆化され、スーパーサイヤ人超はバーゲンセール状態で、
挙げ句の果てに初期の天下一舞踏会で「わしはもうお主らにはかなわんわい」と弱音を吐いていた亀仙人が宇宙規模の力の大会の第一線で戦うような激しいインフレが乱発したり、ファンサービスやカードの売り上げ促進を重視するあまりに、世界観の崩壊やキャラに人格破綻が起こってる現状にドラゴンボール第一世代である我々としては警鐘を鳴らさずにはおられない。)

逆に最後まで白けずに楽しめるのは
キャラクターの人格や世界観が裏側までしっかり作り込まれている作品だ。

昔、何かの記事で、風の谷のナウシカについて
「ツボが空を飛んでも違和感を覚えないのはすごい」みたいなことを読んで、
「まさか…?つぼが?」と思ったが本当にツボが飛んでいて驚いたことあるが、
ジブリ作品は、世界観の作り込みがすごいから、ファンタジーな展開が起こってもしらけることがない。
そういう作品は何度見ても面白い。(宮崎駿さんは、同じの何度も観るな的なことを言っていたが)

自分の作品なんて到底理解されない、自己満足の世界だ。
しかし、自己満足だからだからこそ、誤魔化しが効く時ほど、誤魔化してはいけないのだ。


まさかとは思うかもしれないが、私は自分の作品をめちゃくちゃ面白いと思っているし、
mamamilkも、自分で読んで爆笑している。それは自分が自分の作品について理解しているからだ。
自分で納得のいくものを作る、それが大切だ。




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【057】革命

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ランスくんと、ミルクちゃんのお話。



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【解説】

革命っていうのは、大きな変化を起こすことだ。

「この国に革命を起こしたい」 っていう人は、
ようするに、この国を自分の理想とする形に変えさせてくれってことだ。

「俺は給食で出てくる米を、全部カリフラワーに変える」 というと給食革命。
90パーセントくらい反対が出てくる。袋叩きにあうかもしれない。
「うちらは今の味に満足してんだ、余計なことしてくれるな!」

じゃあ、「魚沼産コシヒカリに変える」となるとどうか、
賛同してくれる人が30パーくらい出てくるかもしれない。


じゃあ、「米は今のままで、炊飯器を圧釜にするのはどうか?」
50パーくらいの賛同は得られるかな。

みんなが「まーそれくらいならいいかなぁ」と納得するライン。

じゃあ、変えないのはどう?
80%の人がそれでいいっていうと思う。

あれ、結局多数決じゃんって。


そう、今の米って、多数決、みんながほどほど納得するラインに収まってる。



世界って、結局みんなが納得できるラインで収まってるんじゃないかな。
満足はしてないけど、リスクを負ってまで、改善をする気力もない。
そういう人たちがごまんといて、それが世界を形作る。

大きな変化を起こすということは、そういう人たちに反対される。

革命家ってのは、例外なく迫害を受けてきた。

世界は、変化を求めていない、変えるのはおせっかいなのだ。

 
ただ、変わってしまえば、それがレギュラーになる。
今度は、そこから変化をしないことを望む。


俺たちは、カリフラワーを食ってきたんだ!今更白いコメなんて食えるかよ。



そこに持ってくまでに、尋常じゃない覚悟と、共に戦い、試練に耐え抜ける同士が必要。
 
その覚悟がないなら、
ほどよくヒーロー活動する方がいい。





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【056】救出劇

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マチルダちゃん、ベアーと、ロウくんのお話。



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【解説】

以前、車を運転していた時、前方で停止している車に気づかず衝突しそうになった。
すぐに急ブレーキを踏んでハンドルを切り、歩道に乗り上げてしまったが衝突を避けれた。

1秒気づくのが遅かったら完全に衝突していた。
大怪我をさせてしまっていたかもしれない。

でも、1秒前に気づいて、避けることができたので、
タイヤがおシャカになった程度ですんだ。

私の車にぶつかられそうになった車は、
しばらく物言いたげにこちらを眺めたあと、
そのまま行ってしまった。

ぶつかられたら、損害賠償請求もあるが、
ぶつかりそうになったでは、「気を付けろ」くらいしか言いようもない。

10:0くらいでこっちが悪いのだけど、
実害が出てなければ非難のしようもない。
私でさえ、なんだか妙な気持ちの悪さがのこっているのだから、
相手もスッキリしない感じが残ったまま去っていったのだと思う。

ことが、起こってしまうか、起こる前に阻止されるかってのは
変動的で不安定なあらゆる要素によって子供の思いつきみたいに決定されているくせに、
その結果が黒か白かで、鼻フックをつけられたみたいに出来事に翻弄されている。



ホームから転落した人を助けたサラリーマンは、
一回こっきりだが、新聞でヒーローと持て囃される。



だけど、


毎日駅のホームでよろめいた酔っぱらいに
「白線の内側を歩いてください」と注意する駅員さんは
実際、いくつもの命を危機から未然に救ってきたヒーローだ。
しかし、新聞ネタにされることはない。

むしろ、事故が起こったときには、
「なんでちゃんと見ていなかったんだ」と叩かれる。

校閲者が完璧な文章を仕上げても褒められることはないが、
誤植が見つかると叩かれるのも同じだ。

救命措置はちやほやされて、
予防措置の価値は、軽んじられている。

そういう気持ちの悪さが、書きたかったのだと思う。

 じつは、だれにも感謝されない命の恩人は、いっぱいいるのではないかと。






056_おまけ

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